初霜 (初春型駆逐艦)
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艦歴
発注 ①計画
起工 1933年1月31日
進水 1933年11月4日
就役 1934年9月27日
その後 1945年7月30日戦没[1]
除籍 1945年9月30日
性能諸元(計画時)
排水量 基準:1,400t
公試:1,680t
全長 109.5m
全幅 10.0m
吃水 3.5m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 オール・ギアードタービン2基2軸42,000hp
最大速力 36.5ノット
兵員 205名
兵装 50口径12.7cm連装砲2基4門
同単装砲1基1門
40mm単装機銃2基2挺
61cm3連装魚雷発射管3基9門
(八年式魚雷18本)
初霜(はつしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[2]。一等駆逐艦初春型の4番艦である[3]。太平洋戦争緒戦では南方作戦・蘭印作戦に従事、以降は北方戦線で行動した。坊ノ岬沖海戦からも生還したが、終戦直前に触雷して沈没した[1]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「初霜」に続いて2隻目となる。
艦歴
1932年(昭和7年)10月1日、日本海軍は浦賀船渠株式会社に駆逐艦1隻の建造を命じた[4]。12月10日、正式に初霜と命名した[2]。また姉妹艦2隻(有明、夕暮)等も命名された[2]。 浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工[5][6]。同年10月31日、初霜進水式の最中に事故が発生、浦賀船渠は進水を中止する[4][7]。 11月4日に進水式をやりなおした[7][8]。建造途中で同型艦初春の復元性能不良が判明し、改善工事を施す。
1934年(昭和9年)2月1日、松原博少佐は初霜艤装員長に任命される[9]。2月12日、浦賀船渠に初霜艤装員事務所を設置する[10]。 初霜は9月27日に竣工[5][11]。同日附で初霜艤装員事務所は撤去[12]。松原少佐も初霜初代駆逐艦長となる[13]。同年11月15日、松原は海軍軍務局局員[14]へ転任(後日、松原は阿賀野型軽巡洋艦1番艦阿賀野艦長、翔鶴型航空母艦1番艦翔鶴艦長等を歴任)[15]。後任の初霜駆逐艦長は宮坂義登少佐(佐世保鎮守府参謀)となった[14]。
1935年(昭和10年)10月15日、宮坂(初霜艦長)は砲艦嵯峨艦長[16]へ転任(後日、宮坂は駆逐艦漣や電艦長を経て第十八駆逐隊司令)[17]。後任の初霜駆逐艦長は、睦月型駆逐艦7番艦文月駆逐艦長山田雄二少佐となる[16]。 1936年(昭和11年)12月1日、山田(初霜艦長)は白露型駆逐艦9番艦江風艤装員長[18]へ転任(翌年4月、江風初代駆逐艦長。1942年8月28日、第二十駆逐隊司令として戦死)。後任の初霜駆逐艦長は鈴木正金少佐[19]。
1937年(昭和12年)12月1日、鈴木(初霜艦長)は連合艦隊参謀(第一艦隊参謀兼務)へ転任[20]。後任の初霜駆逐艦長は、樅型駆逐艦17番艦蓮駆逐艦長塚本守太郎少佐となる[21]。
1938年(昭和13年)1月12日、初春型3番艦若葉艦長澤村成二少佐は初春型6番艦夕暮艦長に転任[22]。これに伴い、塚本(初霜艦長)は、初霜および若葉の艦長兼務を命じられた[22]。12月1日、睦月型駆逐艦10番艦「三日月」艦長大島一太郎少佐が若葉駆逐艦長に任命される[23]。同日附で塚本(初霜艦長)も艦長兼務を解かれた[23]。
1939年(昭和14年)10月16日、塚本(初霜艦長)は睦月型8番艦長月駆逐艦長[24]へ転任(後日、塚本は朝潮型駆逐艦7番艦夏雲艦長。サボ島沖海戦で夏雲沈没時に戦死)。後任の初霜駆逐艦長は文月および長月駆逐艦長を兼務していた本倉正義少佐となる[24]。
1940年(昭和15年)8月20日、初霜駆逐艦長は本倉から睦月型9番艦菊月駆逐艦長浜中脩一少佐[25]に交代する(翌年4月、本倉は吹雪型夕霧駆逐艦長[26]、陽炎型駆逐艦10番艦時津風沈没時艦長[27]、夕雲型駆逐艦13番艦浜波艦長[28]等を歴任)。
1941年(昭和16年)9月10日、浜中(初霜艦長)は白露型駆逐艦8番艦山風駆逐艦長[29]へ転任[30]。後任の初霜駆逐艦長は古浜智少佐となる[31]。初霜は古浜駆逐艦長の指揮下で太平洋戦争を迎えた。
南方作戦
太平洋戦争開戦時には、第一水雷戦隊第二十一駆逐隊(若葉、初春、子日、初霜)に所属し、内海西部で対潜掃蕩に従事した。 1942年(昭和17年)1月、輸送船団を護衛しフィリピンのダバオへ進出した。1月24日、海軍はスラウェシ島ケンダリの攻略を実施[32]。第一根拠地部隊指揮官久保九次少将が攻略部隊の指揮官となって軽巡「長良」を旗艦とし、第十五駆逐隊(夏潮、黒潮、親潮、早潮)、第十六駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)、第二航空部隊(水上機母艦千歳、瑞穂)等がケンダリーを攻略する[32][33]。25日早朝、久保少将の指揮下に入るためケンダリーに急行していた第二十一駆逐隊は、攻略部隊旗艦長良と遭遇[32]。長良と21駆2番艦初春は衝突事故を起こし初春は大破、長良は小破した[32]。長良はダバオへ単独回航、初春は1番艦若葉と3番艦子日に護衛されてダバオへ向かい、久保少将は長良が修理を終えて復帰するまでの間、第二十一駆逐隊4番艦だった初霜に将旗を掲げた[32]。
その後、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦に参加[34]。2月18-19日、バリ島攻略作戦に従事していた第八駆逐隊(司令阿部俊雄大佐)の朝潮型4隻(大潮、朝潮、荒潮、満潮)はカレル・ドールマン少将率いる連合軍艦隊(ABDA艦隊)の軽巡3隻・駆逐艦7隻と交戦、満潮大破・大潮小破に対し駆逐艦1撃沈・軽巡1中破・駆逐艦1小破の戦果をあげ、ABDA艦隊を撃退した(バリ島沖海戦)[35]。久保少将指揮下の長良、第二十一駆逐隊(初霜、若葉、子日)は連合国軍艦隊が撤退した後の午前6時に戦場へ到着[36]。各艦は第1グループ(朝潮、荒潮、満潮、子日)、第2グループ(若葉、大潮)、第3グループ(長良、初霜)にわかれ、空襲を受けながら21-22日にかけてスラウェシ島マカッサルへ帰投した[36]。
バリ島攻略後の3月1日午前2時、第二十一駆逐隊(子日、若葉、初霜)と測量艦筑紫はバリ島とジャワ島間のバリ海峡を哨戒していた[37]。そこへスラバヤ沖海戦で生き残ったアメリカ軍駆逐艦4隻アルデン(英語版)、ジョン・D・エドワーズ(英語版)、ジョン・D・フォード(英語版)、ポール・ジョーンズがオーストラリアへの脱出をはかってバリ海峡へ到達[37]。第二十一駆逐隊はアメリカ軍駆逐艦にふりきられ、敵艦の脱出を許した[37]。
5月3日と4日、第二十一駆逐隊[38]は四国南方から九州東岸で対潜掃討を行った[39]。
北方での活動
第二十一駆逐隊は5月20日に北方部隊に編入され、軽巡洋艦「阿武隈」などとともにAQ攻略部隊(AQはアッツ)として[40]AL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。AQ攻略部隊は5月29日に川内湾を出撃[41]。6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し、8日には同島のチチャゴフを占領した[42]。9日、「初霜」と「阿武隈」と駆逐艦「子日」はセミチ島の掃海及び基地調査を行った[42]。6月10日にAQ攻略部隊の編制は解かれ、主隊(重巡洋艦「那智」ほか)への合流を命じられた「阿武隈」と第二十一駆逐隊(「子日」欠)は同日アッツ島を離れた[43]。第二十一駆逐隊(「子日」欠)は6月13日にAOB攻略部隊(AOBはキスカ)に編入され、同日キスカ島到着[44]。6月22日、第二十一駆逐隊はアガッツ島で水上機部隊(「神川丸」、「君川丸」ほか)と合流した[45]。7月3日、「初霜」は、敵艦隊邀撃作戦中の部隊に合流[46]。敵艦隊の出現はなく、その後部隊は横須賀または柱島に帰投した[46]。「初霜」は温彌古丹海峡へ向かい、資材を運ぶ「白山丸」をそこから護衛して7月16日にキスカに到着[47]。同日、「初霜」は出港し、7月23日に横須賀に着いた[48]。また、7月10日に「阿武隈」、第六、第二十一駆逐隊で護衛隊が編成された[49]。
8月2日に「初霜」と重巡洋艦「那智」は横須賀を出港し、8月6日に加熊別湾に着いた[50]。8月8日、アメリカ艦隊がキスカ島を砲撃。北方部隊は幌筵に集結し、8月12日に北方部隊の主隊と護衛隊がアリューシャン方面へ向けて出撃した[51]。しかし、同日日本の本土東方で不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊はアメリカ機動部隊出現と判断[52]。北方部隊の主隊、護衛隊も南下して索敵に従事することとなった[53]。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊、護衛隊は8月16日に大湊に入港した[54]。水偵発見は誤報であったものと思われる[55]。
8月27日にアトカ島東部のナザン湾に敵巡洋艦等発見の報告があり、8月29日に北方部隊の主隊、護衛隊は大湊を出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した[56]。9月3日、陸軍部隊のアッツ島からキスカ島への移駐における輸送船護衛のため「初霜」と「若葉」はアッツ島へ向け出港[57]。一方、同日「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見を報告し、「阿武隈」や第二十一戦隊などは再び出撃してアッツ島南西方面へ向かった[58]。「初霜」と「若葉」もそれに合流し、輸送船は退避させられた[58]。しかし、アメリカ艦隊は出現せず、移駐作戦再興のため9月7日に「初霜」と「若葉」は分離されてアッツ島へ向かった[59]。2隻は9月9日にアッツ島に到着し、人員430名などをのせた「射水丸」をキスカ島まで護衛[60]。続いて「初霜」は「長田丸」を護衛してアッツ島に向かい、それから「初霜」、「長田丸」、「駒橋」、「陽光丸」の4隻でキスカ島への輸送を行った[61]。4隻は護衛の「第十四号駆潜艇」、「第十五号駆潜艇」とともに9月17日にアッツ島を出発し、翌日キスカ島に到着[61]。同日、「初霜」は出港し、9月23日に大湊に帰着した[62]。
監視艇からの敵味方不明の飛行機発見の報告を受けて9月30日に主隊および護衛隊は大湊から出撃するも、特に何もなかった[63]。10月2日、大湊に帰着[64]。
10月18日に「初春」は片岡湾に向けて大湊を発し、10月20日に到着[65]。即日出港し、損傷した駆逐艦「初春」とそれを曳航する「若葉」と合流して護衛を行った[66]。
10月末からアッツ島の再占領が行われた。そのために10月21日に第一水雷戦隊と軽巡洋艦「多摩」、「木曾」で挺身輸送部隊が編成された[67]。挺身輸送部隊と主隊は加熊別湾に集結[68]。10月27日から挺身輸送部隊は陸軍米川部隊主力をアッツ島へ輸送した[69]。陸軍部隊を乗せるのは巡洋艦3隻で、第二十一駆逐隊は警戒隊であった[70]。10月26日に挺身輸送部隊は出撃したが、荒天のため「初春」で行方不明者が9名発生[71]。翌日あたらめて挺身輸送部隊は主隊と共に出撃し、10月29日夜に揚陸を行って11月1日に片岡湾に帰投した[71]。11月7日から「初霜」、「若葉」、「薄雲」は北海守備隊司令部(68名)などを幌筵からキスカ島へ輸送[72]。11月10日にキスカ島に着き、11月13日に片岡湾着[73]。続いてアッツ島への増強部隊の輸送、およびセミチ占領作戦が行われ、「初霜」は後者に参加した[74]。セミチ攻略部隊は「初霜」、「多摩」と陸軍輸送船「もんとりーる丸」、「八幡丸」でD船団と称され、11月24日に片岡湾を出港した[75]。しかし、アッツ島で陸軍輸送船「ちえりぼん丸」が空襲にあい沈没したことでセミチ攻略は延期となり、D船団は引き返して12月2日に片岡湾に戻った[76]。
11月28日附で初霜駆逐艦長は、11月10日まで神風型駆逐艦5番艦旗風駆逐艦長だった入戸野焉生少佐[77]に交代する[78]。
12月7日、「初霜」は大湊入港[79]。翌日、特設水上機母艦「君川丸」とともに横須賀へ向かい、12月9日に到着[80]。その後、横須賀で載せた水上機をアッツ島へ輸送する「君川丸」を護衛[81]。12月16日に「君川丸」とともに横須賀を発し、12月20日に片岡湾着[82]。12月23日に「君川丸」を護衛して出撃し、12月25日にアッツ島に到着して輸送を完了した[83]。
1943年1月4日に「初霜」は入渠修理のため佐世保へ向けて大湊を出港し、1月6日に到着[84]。佐世保での入渠の際、40mm単装機銃2基から25mm連装機銃2基へ換装が行われた[85]。
1月31日に佐世保を発し、2月4日に柏原湾に着いた[86]。2月10日、「木曾」とともに「崎戸丸」を護衛してキスカ島へ向けて幌筵より出港[87]。しかし、「崎戸丸」の舵機故障により引き返した[88]。2月13日、第十四船団として「崎戸丸」と「春幸丸」を「木曾」、「若葉」とともに護衛してキスカ島へ向けて幌筵より出航[88]。しかし、アメリカ水上部隊が出現しアッツ島に対する艦砲射撃があったことから、輸送は断念され船団は引き返した[89]。
1943年(昭和18年)3月、第二十一駆逐隊(初霜、若葉)は重巡2隻(那智、摩耶)の直衛としてアッツ島沖海戦に参加[90]。日本艦隊(那智《第五艦隊旗艦》、摩耶、多摩、阿武隈《第一水雷戦隊司令官森友一少将座乗》、若葉、初霜、雷)の稚拙な指揮や砲戦・雷撃戦により米艦隊撃破の機会を逃した[91]。 アッツ島沖海戦で「初霜」は18000メートルの距離で魚雷5本を発射した[85]。また、12.7cm砲の発砲は6発であった[92]。 輸送船の護衛のため海戦に参加できなかった電は第五艦隊の戦闘を酷評している[93]。アッツ島への増援輸送船団は反転を余儀なくされ、第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将は解任(後日、予備役編入)[94]。本海戦はアッツ島玉砕の遠因となった[95]。
ひきつづき北方で行動する第二十一駆逐隊は第五艦隊・第一水雷戦隊に編入され、内地と千島間の船団護衛に従事。
「初霜」は「若葉」や重巡洋艦「那智」、「摩耶」とともに3月31日に横須賀へ向かい、4月3日に「初霜」と「若葉」は横須賀に到着[92]。同地で修理が行われた[92]。
6月6日、第一水雷戦隊司令官森友一少将が急病で倒れ、6月8日附で木村昌福少将が同水雷戦隊司令官となる[96][97]。7月、第二十一駆逐隊はキスカ島撤退作戦に加わる。第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の指揮のもと、収容部隊(阿武隈、木曾、島風、響、朝雲、薄雲、長波、秋雲、夕雲、風雲、若葉、初霜、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という戦力が集結、撤退作戦は無事に完了した。本作戦従事中の7月26日、濃霧により海防艦国後、軽巡阿武隈、駆逐艦初霜、若葉、長波の多重衝突事故が起きる[98]。損傷により若葉は帰投を余儀なくされ、また速力低下をきたした初霜も日本丸護衛にまわされた[99]。このため初霜はキスカ島での陸兵救出作業には従事していない[100]。初霜は幌筵で応急修理後、千島方面の船団護衛に従事した。
11月17日、入戸野(初霜艦長)は陽炎型駆逐艦19番艦秋雲駆逐艦長[101]へ転任(入戸野は、翌年4月11日に「秋雲」が米潜水艦レッドフィンに撃沈された際、戦死)[102]。後任の初霜駆逐艦長は、11月2日まで神風型4番艦松風駆逐艦長[103]だった滝川孝司少佐となる[101]。
昭和19年の戦い
1944年(昭和19年)1月より、初霜は空母「雲鷹、千歳、瑞鳳、龍鳳」などの護衛に従事した。6月18-20日、マリアナ沖海戦に補給部隊の護衛艦として参加する。6月20日、補給部隊は護衛艦(卯月、雪風、夕凪、初霜、響、栂)と油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸)という編制で行動中、アメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けた[104]。油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上。卯月は玄洋丸を砲撃で、雪風は清洋丸を雷撃で処分した[105]。