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日本航空母艦 信濃 SHINANO TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.215
日本航空母艦 信濃 SHINANO TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.215 [浏览原始页面]
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TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.215 日本航空母艦 信濃 SHINANO

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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝 

信濃(しなの)は、大日本帝国海軍の航空母艦[1][32]。艦名は旧国名の信濃国から採られた。第二次世界大戦に参加した最大の航空母艦であった[33]
 
概要
軍艦信濃(しなの)は[1]、日本海軍が建造した航空母艦[注釈 6]計画にもとづき横須賀海軍工廠で1940年(昭和15年)5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を[注釈 7]、ミッドウェー海戦以降の戦局の変化に伴い[36]、戦艦から航空母艦に設計変更した改造空母である[37][注釈 8]
 
1944年(昭和19年)1119日、航空母艦として竣工[39]1128日、空襲を避けるため未完成[40]のまま横須賀から呉へ回航される[注釈 9]。 第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)に護衛されて航行中の1129日午前320[注釈 10]、紀伊半島潮岬沖合でアメリカ海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」より魚雷攻撃を受ける[43]。魚雷4本が命中[42]、浸水が止まらず、午前1050分頃に転覆して沈没した[44]。竣工から沈没まで艦命は僅か10日間であった[32]
 
艦歴
建造
大和型戦艦
第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を計画する。条約明けの1937年(昭和12年)、第1号艦大和・第2号艦武蔵・第5号艦日進等は第70回帝国議会に提出された第三次海軍軍備補充計画(計画)により予算が承認され、建造が始まった。
 
翌年、日本海軍は第四次海軍軍備充実計画(④計画)を立ち上げ、艦齢30年が経過した金剛型戦艦3番艦榛名、4番艦霧島の代艦として大和型戦艦建造番号第110号艦、第111号艦、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった[45][46][注釈 11]
 
詳細は「横須賀海軍施設ドック」を参照
 
110号艦(信濃)を建造した横須賀海軍施設六号ドック
110号艦は横須賀海軍工廠に第六船渠を新造し、そこで建造されることが決まった[48]。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの船渠(ドライドック)だけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦の武蔵(長崎、三菱重工)のように船台での建造を選ばず、大和型戦艦用の第6船渠を新たに作る事になった[49][50]。当時の横須賀最大のドックは、長門型戦艦「陸奥」が建造中に入渠した第5船渠だった[51]23ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した[52]。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され[53]、広いグラウンドとなった。
 
第二復員局がまとめた資料では、110号艦の起工日は1940年(昭和15年)47日となっている[7][8]
 
54日、ドックの完成と同時に第110号艦の起工式が行われる[54]。第110号艦自体の予算は約14770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる[55]。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された[56][57]。大和、武蔵が予算計上時は一号艦、二号艦と呼ばれていたことから、本艦にも三号艦の俗称があった[58]。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた[59]
 
110号艦は1943年(昭和18年)10月進水、1944年(昭和19年)4月主砲積込み、1945年(昭和20年)3月末の完成を目指し工事が進められていた[60]。だが、艦底防御の計画変更などにより建造工程は遅れ気味であった[61]。建造中、アメリカとの開戦が決定的となった。
 
1941年(昭和16年)11月、戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となる[62]。第111号艦はミッドウェー海戦後に正式に建造中止となり即時解体[63][38]。後日、資材や艦体の一部は伊勢型戦艦2隻の航空戦艦化[64]、ドイツ客船シャルンホルスト(空母「神鷹」)の空母改造工事に利用された[65]。甲鉄のうち製造済みのものは横須賀に運ばれ、110号艦にも利用されたという[66]
 
開戦時(128日)の第110号艦は、船体工事は前後部が弾薬庫床部分まで、中央部は下甲板附近まで、全体としては下部構造の工事進行中だったという[61]。そこで「本艦は戦艦としての工事を中止し、浮揚出渠せさるに必要な工事のみを進め、なるべく速やかに出渠(しゅっきょ)せしむべし」として船体のみを建造し、ドックを中型空母建造や損傷艦修理のために開けるよう命じられる[67]1942年(昭和17年)10月の船体完成を目指すが、建造資材を損傷艦に廻されたり、工員の士気も下がるなどして、工事は停滞状態となった[68]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将の陣中日誌戦藻録には、423日に杉浦軍令部第三課長と神重徳軍令部一課部員が連合艦隊司令部を訪れ、「戦艦建造を『第三号艦』迄とし、其余力を空母建造に集中するを可とす」とした他、超甲巡の建造見送り、潜水艦と航空機の増産などが話し合われたと記されている[69]
 
空母化
1942年(昭和17年)春、アメリカが両洋艦隊法により大型航空母艦多数を建造しているという情報を得た日本軍は、改計画で改大鳳型航空母艦や改飛龍型航空母艦など、空母の保有数を増やすことを検討していた[70]
 
418日、空母ホーネットから発進したB-25爆撃機16機が日本を空襲した(ドーリットル空襲)[71]。横須賀にも1機が飛来し、第110号艦の近くで空母に改造中だった潜水母艦大鯨(後の空母龍鳳)に爆弾1発が命中した[72][73]。第110号艦に被害はなく、またアメリカ軍機にも発見されなかった[73]
 
このドーリットル空襲は6月上旬に実施予定であったミッドウェー島攻略作戦にも影響を与えたが[74]、作戦中に発生したミッドウェー海戦で日本軍は、主力空母4隻を失った[75][76]
 
日本海軍は空母機動部隊を再建すべく、戦時急造空母(商船改造空母、雲龍型航空母艦、改大鳳型航空母艦等)の急造を計画[77]630日に海軍大臣の即時決裁をうけ建造を決定・開始する[78][注釈 12]
 
その一環として横須賀第6ドックから第110号艦をどかし、中型空母「飛龍」を改修した雲龍型航空母艦(17,500トン)2隻を同時建造する意向を示した[79]。しかし2年をかけて船体進行率70%という状態まで形状が出来ていた第110号艦の解体はそれだけでも大事業となり、横須賀工廠の現場からは机上の空論とみなされている[79]。だが大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船「樫野」が94日に米潜水艦グロウラーに撃沈され、第110号艦を大和型戦艦として建造することも難しくなっていた[64][80]。仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「知床」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった[80]
 
ここに至り日本海軍は大和型戦艦・第110号艦を航空母艦へ設計変更し、1944年(昭和19年)12月末を目指し空母として就役させることを決定する[36][81]。第110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった[82]
 
110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と軍令部・艦政本部の空母急速増産計画には記載されている[83]1942716日、軍令部次長が海軍次官に宛てた「第110号艦(改装)主用要目に関する件協議」では、排水量や速力の他、以下の項目を記載している[84]
 
主用兵装搭載機は艦戦36、艦攻18、艦偵9。但し格納庫は艦戦18に対する分を完備し、艦攻18以上なるべく多数の応急格納し支障なからしめ、その余は甲板繋止めとす。
飛行甲板防御は500kg爆弾の急降下爆撃に対し安全ならしむ。但し後部飛行機格納庫は800kg急降下爆撃に対し安全ならしむ。
舷側防御:130号艦に準ず(第130号艦は大鳳のこと。同艦は巡洋艦20cm砲弾防御)。
爆弾、魚雷、航空燃料の搭載量は第130号艦程度とし、飛行機に対する補給を急速容易に実施可能ならしむ。
110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部、軍令部(航空関係者)、航空本部員の間に、基本構想と意見の食い違いがあった[85]
 
艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の艦上攻撃機・艦上爆撃機を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された[86][61]。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったとする主張もある[87]
 
大鳳型航空母艦があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し[88]、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある[89]
 
しかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招いた[61]。神重徳(軍令部参謀)はアウトレンジ戦法に強く反対し、第110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している[90]。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという大鳳型の着想と似たものとなった[91]
 
全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた[92]。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で詳細設計を進め、工事再開は1943年初頭となった[93]
 
110号艦(信濃)の建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定だった[94]。ところが、日本海軍はガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。
 
1943年(昭和18年)325日、嶋田繁太郎軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は松型駆逐艦及び潜水艦に限定せよ」と通達[94]。同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる[95]。その上、横須賀工廠は雲龍型航空母艦1番艦(雲龍)[96]、軽巡(能代)[97]、松型駆逐艦[98]、丙型海防艦[99]の建造や艤装工事、水上機母艦千代田を軽空母に改造する作業、空母翔鶴修理作業(南太平洋海戦で大破)、空母飛鷹修理作業(昭和186月、潜水艦雷撃で大破)、軽巡洋艦「大淀」や重巡「摩耶」等各種艦艇の修理整備作業を抱えており[100]、工員4,000人を増員しても手一杯であった[101]。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている[94]
 
1943年(昭和18年)624日、昭和天皇は横須賀沖に停泊中の戦艦「武蔵」(当時、連合艦隊旗艦)に行幸する[102][103]。これに先立ち、高松宮宣仁親王(天皇弟宮、海軍大佐)が110号艦を視察している[104]
 
1944年(昭和19年)619日から20日にかけて発生したマリアナ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫した[105]。主力空母3隻(翔鶴、大鳳、飛鷹)を一挙に失ったのである。特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた[106]。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった[107][100]
 
71日附達212号をもって第110号艦は軍艦 信濃と命名され[1][15]、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)[2]。同時に「1944年(昭和19年)1015日までに竣工させよ」との命令が下る[15]。また「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた[15]。『海軍造船技術概要』によれば、軍令部が横須賀海軍工廠長に命じた内容は以下の項目である[108][15]
 
居住設備は士官より兵員に至るまで簡素にして最小限のものとする。
事務倉庫以外の倉庫設備も極力簡単にする。
戦闘時の火災を防ぐため、木材部分を極力少なくする。
防毒区画の気密試験を省略する。
中甲板以上の区画の気密試験を省略する。
造機、造兵関係工事もできるだけ後回しとする。
工期目標、105日進水。108日、命名式後沖繋留。1015日、竣工。
周辺県の造船所から工員を借り受け、海軍工作学校からの応援も受ける。
建造予定が遅れているにもかかわらず、大鳳喪失を補うためにも初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された[109]。熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊も狩り出された[110]。「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」「信濃がなければ、戦争に負ける」等の決意が作業を促進したという指摘もある[111][112]
 
だが大和型戦艦2番艦武蔵で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった[113]。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった牧野茂 (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、信濃/110号艦の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている[114]。このように工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかった[115]。その一方で、燃料タンク周辺にコンクリートを流し込む作業は行われた[116]。信濃は同海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり死力を尽くして作業が進められた[112]
 
進水式
 
信濃艦長の阿部俊雄大佐
信濃は過労や事故により10名以上の殉職者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将は、110号艦(信濃)を油槽船に改造し、スマトラ島より燃料を運ぶ計画を立てていた[117]
 
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