以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
--- ### 序章:指輪の独白 私の名は、EL CANDOR。スペインの陽光を浴びて生まれた、18金の指輪だ。重さ9.9グラムの体は、温かなイエローゴールドと、冷静な輝きを放つホワイトゴールドの二つの流れが寄り添い、決して交わることなく、しかし永遠に離れることのない螺旋を描いている。その境目には、澄んだダイヤモンドが星屑のように埋め込まれている。人々は私を「ユニセックス」と呼ぶが、私は知っている。私は、ただ一人の男と、ただ一人の女のために作られたのだ。 私の記憶は、マドリードの小さな工房で始まった。情熱的な職人の指先が、私に形と輝きを与えてくれた。注文主は、黒い瞳をした日本の若者だった。建築を学ぶ彼は、スケッチブックの隅に、何度も私のデザインを描き直していた。彼の指はインクで汚れ、その瞳には遠い故郷にいる恋人への想いが宿っていた。彼は言った。「彼女の優しさと、僕の情熱。二つが一つになるように。決して離れないように」。 私は、彼の願いそのものだった。イエローゴールドは彼の燃えるような情熱。ホワイトゴールドとダイヤモンドは、彼女の清らかで揺ぎない優しさ。そして、二つの金属を繋ぐデザインは、二人の未来の象徴。 しかし、運命は時に残酷な悪戯をする。私は、彼の想いを乗せて日本へと送られた。だが、私の旅は、目的の指にたどり着く直前で断ち切られた。ある若者の、嫉妬と後悔の手に落ち、光の当たらない小さな箱の中で、私は四十年の時を眠ることになった。 私は、主のいない指輪として、ただ待ち続けた。私に込められた約束が、いつか果たされる日を。ダイヤモンドの奥に閉じ込めた若者の情熱が、再び輝きを取り戻す瞬間を。 そして令和の時代。ある初秋の日の午後、ついにその時は訪れた。古びたビロードの箱が開かれ、優しい光が私を包んだ。目の前にいたのは、還暦を目前にした一人の女性。彼女の瞳の奥に、私は四十年前の面影を見た。 私の、そして彼らの、止まっていた時間が、今、再び動き出す。 ### 第一章:静かな午後と過去からの呼び声 神楽坂の裏路地に佇む小さなアンティークギャラリー「時の雫」。その店主である白石結子(しらいしゆうこ)は、まもなく六十歳の誕生日を迎えようとしていた。穏やかな物腰と、手入れの行き届いた銀髪が、彼女の重ねてきた年月の深みを物語っている。十年前に夫を病で亡くしてからは、この店だけが彼女の世界のすべてだった。 その日、結子は古物市場で仕入れた品々の整理をしていた。埃をかぶった木箱の中から、彼女はふと、一つの小さなビロードの箱に手を止めた。濃紺のビロードは擦り切れ、時代の重みを纏っている。そっと蓋を開けると、中から現れたのは、息を呑むほどに美しい指輪だった。 イエローゴールドとホワイトゴールドが織りなす、流麗な曲線。二つの異なる金属が、まるで愛し合う男女が寄り添うように絡み合っている。その境界線には、小さなダイヤモンドが川の流れのように埋め込まれ、静かな光を放っていた。モダンでありながら、どこかクラシカルな気品を漂わせるデザインに、結子は一瞬で心を奪われた。 「まあ、素敵…」 思わず声が漏れる。指輪を手に取ると、ずしりとした重み(9.9g)が心地よかった。内側には「EL CANDOR」「18K」という刻印。スペインの工房だろうか。サイズは15号。少し大きいが、自分の人差し指にはちょうど良さそうだ。 何気なく、彼女は指輪を左手の人差し指にはめてみた。その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。 目の前の陳列棚が消え、午後の柔らかな日差しが、夏の焼けつくような陽光に変わる。耳慣れたクラシック音楽は、カーステレオから流れる80年代のポップスに。そして、目の前には、いるはずのない光景が広がっていた。 緑豊かな大学のキャンパス。蝉時雨が降り注ぎ、汗ばんだ肌を撫でる風が生ぬるい。自分は、白いワンピースを着て、ベンチに座っている。隣には、日に焼けた腕を投げ出し、眩しそうに空を見上げる青年がいた。 (健司…くん…?) 彼の名前が、思考よりも先に口をついて出そうになった。桐島健司(きりしまけんじ)。建築学科の学生で、結子の恋人だった男。四十年前、何も言わずに彼女の前から姿を消した、初恋の相手。 「なあ、結子。俺、スペインに行くことにしたんだ」 若い健司が、少し照れくさそうに、それでいて決意に満ちた目で結子を見る。その眼差しは、結子の記憶の底に焼き付いているものと寸分違わなかった。 「スペイン?留学…?」 自分の声が、記憶の中のそれよりもずっと若く、高く響く。 「ああ。最高の建築を学ぶためだ。でも、必ず帰ってくる。そしたら…」 健司が何かを言いかけた瞬間、結子の意識は再び現実へと引き戻された。 「はっ…!」 息を弾ませ、結子は自分の手を見る。指には、あの指輪が静かに嵌っている。ギャラリーは元の静けさを取り戻し、窓の外では銀杏の葉が風に揺れていた。 「今の…は…?」 幻覚?あまりに鮮明な、白昼夢。だが、肌に残る夏の陽光の熱さ、耳の奥で鳴り響く蝉の声、そして胸を締め付ける甘酸っぱい痛みは、あまりにもリアルだった。 結子は恐る恐る、もう一度指輪に意識を集中させた。すると、再びあの夏の日の光景が脳裏をよぎる。健司の笑顔、彼の声、触れた指先の熱さまでが、まるで昨日のことのように蘇ってくる。 この指輪…。この指輪が、私を過去に…? 荒唐無稽な考えだと頭では分かっている。しかし、心が、魂が、この不思議な現象を肯定していた。四十年間、心の奥底に蓋をしてきたパンドラの箱が、この指輪によって開かれようとしている。 結子は指輪を外すことができなかった。まるで、失われた時間を取り戻せと、指輪が彼女に囁きかけているようだった。 ### 第二章:建築家の孤独と一枚のスケッチ 都心にそびえ立つ高層ビルの最上階。桐島健司は、自身が設計したこのビルの一室から、夕暮れの東京を見下ろしていた。日本を代表する建築家として成功を収め、富も名声も手に入れた。五年前に妻に先立たれ、一人娘も結婚して家を出た今、この広すぎるオフィスには静寂だけが満ちている。 還暦を目前にして、健司は言いようのない虚しさを感じていた。これまで仕事に没頭することで、心の隙間を埋めてきた。だが、年齢を重ねるにつれ、その隙間は無視できないほどに大きくなっていた。 (俺は、一体何を置き忘れてきたんだろうな…) デスクの引き出しの奥から、彼は古びたスケッチブックを取り出した。学生時代から使っているもので、表紙は擦り切れている。パラパラとページをめくると、若き日の拙いが情熱に満ちたデッサンが現れる。教会の尖塔、ガウディの建築、そして…最後のページに、一枚だけ、建築ではないものが描かれていた。 それは、指輪のデザイン画だった。 イエローゴールドとホワイトゴールドが絡み合う、螺旋のデザイン。詳細な寸法(縦幅13.9mm)や、素材の指定まで書き込まれている。その下には、小さな文字で「Para Yuko, mi sol(結子へ、私の太陽)」とスペイン語で記されていた。 四十年前、短期留学先のスペインで、彼はこの指輪をデザインし、現地の工房「EL CANDOR」に製作を依頼した。結子の二十歳の誕生日に贈るための、世界でたった一つの約束の証。必ず日本に帰るという、彼の決意の表れだった。 しかし、その指輪が結子の指に嵌められることはなかった。 スペインから帰国した健司を待っていたのは、信じがたい現実だった。親友の辰也(たつや)から、「結子には、新しい相手ができた。お前のことなど、もう待ってはいない」と告げられたのだ。打ちのめされた健司は、結子に真偽を確かめる勇気もなく、再び建築の世界に逃げ込んだ。彼女を傷つけたくない、幸せを壊したくないという一心で、彼は自ら身を引いた。 以来、結子の名前を口にすることはなかった。だが、忘れた日は一日もなかった。結婚し、家庭を持っても、心の片隅には常に、夏の陽射しの中で笑う彼女の姿があった。 スケッチブックを閉じ、健司は深くため息をついた。あの指輪は、一体どこへ行ってしまったのだろう。工房から確かに日本へ送ったはずだった。郵便事故か、それとも…。そして、結子は今、どこでどうしているのだろう。 そんなことを考えていた矢先、スマートフォンの着信音が静寂を破った。大学時代の同期からの、還暦を祝う同窓会の知らせだった。健司は普段、こうした集まりには顔を出さない。だが、その知らせの文面にある名前を見て、心が大きく揺れた。 「白石結子さんも参加予定です」 白石。それは、結子の旧姓だった。 ### 第三章:四十年の時を超えた再会 同窓会当日。都内のホテルの一室は、初老の男女の賑やかな声で満たされていた。健司は、人いきれのする会場の隅で、一人グラスを傾けていた。旧友たちに囲まれ、成功を称賛されるたびに、彼の心はかえって冷めていく。彼が本当に会いたい人間は、一人しかいなかった。 その時、ふと入り口に立った女性に目が釘付けになった。 落ち着いたグレーのドレスを上品に着こなし、優雅にまとめられた銀髪が照明に照らされて輝いている。歳を重ねたことで、若い頃の可憐さに、深い知性と気品が加わっていた。 白石結子。 四十年の歳月が、一瞬で巻き戻される。健司の心臓が、若い頃のように激しく鼓動を打った。結子もまた、健司の存在に気づいたようだった。彼女の目がわずかに見開かれ、その表情に戸惑いの色が浮かぶ。 二人の間に、見えない時間が流れる。周囲の喧騒が遠のき、世界に二人だけしかいないような錯覚に陥った。先に沈黙を破ったのは、健司の方だった。 「…久しぶりだな、白石さん」 「桐島…くん。お久しぶりです」 ぎこちない挨拶。だが、その声を聞いただけで、健司の心は締め付けられた。結子は、穏やかに微笑んでいる。しかし、その瞳の奥には、拭いきれない哀しみの影が揺らめいていた。 何を話せばいいのか分からないまま、二人は当たり障りのない近況を報告し合った。健司が建築家として大成したこと。結子が神楽坂でギャラリーを営んでいること。互いに家庭を持ち、そして伴侶を亡くしたこと。 会話の途中、健司は結子の左手の人差し指に光るものを見つけた。 (あの指輪は…?) それは、見紛うことなき、彼がデザインした指輪だった。イエローゴールドとホワイトゴールドの螺旋。ダイヤモンドの輝き。四十年の時を経て、それは信じがたいほどの輝きを保ち、彼女の指に収まっていた。 「その指輪…」 健司の声が震える。結子は、はっとしたように自分の指に目を落とした。 「ああ、これ…。最近、手に入れたんです。古いものみたいですけど、なぜかとても惹かれて…」 結子がそう言った瞬間、近くにいた男が二人の会話に割って入った。 「よう、健司!それに結子さんも。二人で何を内緒話してるんだ?」 現れたのは、二人の共通の友人、相田辰也だった。学生時代、いつも三人で行動を共にしていた親友だ。 「辰也か。久しぶりだな」と健司が応じるが、その目は結子の指輪に釘付けになったままだった。 「素敵な指輪じゃないか、結子さん。よく似合ってるよ」と辰也がにこやかに言う。その笑顔に、健司は言いようのない違和感を覚えた。 健司は、衝動を抑えきれなかった。 「白石さん、少しだけ、その指輪に触れてもいいだろうか?」 唐突な申し出に、結子も辰也も驚いた顔をした。だが、結子は健司の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、静かに左手を差し出した。 健司が、震える指で、指輪にそっと触れた。 その瞬間。 世界から、再び色が失われた。ホテルの喧騒は嘘のように消え去り、むせ返るような夏の熱気が二人を包み込む。 気づけば、彼らは四十年前の大学のキャンパスに立っていた。目の前には、あの日のベンチが、あの日の青空が広がっている。 だが、今回は違った。結子だけではない。健司もまた、若い自分の姿で、隣に立つ若い結子を見つめていた。二人の意識が、同時に過去へと飛んだのだ。 「これは…一体…」健司が呻く。 「桐島くんも…?あなたにも、見えるの…?」結子の声も震えていた。 そして、彼らの目の前で、四十年前の光景が再生され始めた。若い健司が、若い結子にスペイン行きを告げている。 「必ず帰ってくる。そしたら…結婚しよう、結子」 若い健司が、そう言って結子の手を握る。それは、健司が言い出せなかった、そして結子が聞くことのなかった言葉だった。 「え…?」 現在の意識を持つ結子と健司は、同時に息を呑んだ。 健司は、確かにそう言うつもりだった。だが、実際には、その言葉を口にする前に、遠くから辰也に呼ばれ、話が中断されてしまったのだ。そして、それが二人で交わした最後の会話になった。 過去の幻影は続く。若い健司が辰也の元へ駆け寄っていく。その後ろ姿を、若い結子は不安そうに見つめている。 なぜ、あの時、俺は「結婚しよう」の一言が言えなかったんだ? なぜ、私は、彼の言葉を最後まで待てなかったの? 四十年の時を超えて、二人の心に同じ後悔が突き刺さる。指輪を通じて共有された過去は、彼らが信じていた「真実」とは、少しだけ、しかし決定的に異なっていた。 ### 第四章:暴かれた嘘と友の告白 意識が現在に戻った時、健司と結子は、ホテルの喧騒の中で立ち尽くしていた。互いの目を見つめ合う。そこには、同じ衝撃と、同じ疑問が浮かんでいた。 「今のは…」 「私たち、同じものを…見たのね…」 二人の様子を、辰也が訝しげな顔で見ていた。彼の顔色は、心なしか青ざめているように見えた。 「どうしたんだ、二人とも。急に黙り込んで」 健司は、辰也を鋭い目で見据えた。学生時代の、あの日の記憶。スペインから帰国した彼に、辰也が告げた言葉が脳裏に蘇る。 『結子は、もう待てないってさ。他にいい人ができたらしい。お前も、自分の夢に集中した方がいい』 あの言葉は、本当だったのか? 健司は、もう一度結子の手を取り、指輪を強く握った。結子も、彼の意図を察したように頷く。二人は、真実を知る必要があった。 「辰也」健司は、できるだけ平静を装って言った。「お前に、聞きたいことがある」 三人は、会場の喧騒を離れ、ホテルの静かなラウンジへと席を移した。窓の外では、東京の夜景が宝石のように煌めいている。 健司は、単刀直入に切り出した。 「四十年前、俺がスペインから帰ってきた時、お前は俺に言ったな。結子に新しい相手ができた、と。あれは、本当だったのか?」 辰也の肩が、びくりと震えた。彼は視線を泳がせ、口ごもる。 「な、何だよ、急に昔の話を…。そんなこと、もう忘れたよ」 「忘れていないはずだ」今度は結子が、静かだが芯の通った声で言った。「あなたは、私にも言ったわ。『桐島くんは、スペインで恋人ができた。もう日本のことなんて忘れて、建築の道に進む』って。だから、彼からの連絡を待つのはやめなさい、と」 辰也の顔から、血の気が引いていく。観念したように、彼は深くうなだれた。 長い沈黙の後、辰也はぽつりぽつりと語り始めた。それは、四十年もの間、彼一人が抱え込んできた、罪の告白だった。 「…好きだったんだ。俺も、結子さんのことが…」 学生時代、辰也は親友の恋人である結子に、密かな想いを寄せていた。健司と結子、二人の才能と輝きが眩しくて、すぐそばにいながらも、彼は常に劣等感を抱いていた。 健司がスペインに発った後、辰也はチャンスだと思った。だが、結子の心には健司しかいなかった。そんな彼女の姿を見るうちに、彼の恋心は、歪んだ嫉妬へと変わっていった。 「健司から、手紙が届いたんだ。結子さん宛の…分厚い封筒だった。その中に、小さな箱が入っているのが分かった」 それは、健司がスペインの工房から送った、あの指輪だった。 「俺は…、その手紙を、結子さんに渡さなかった。そして、二人には、それぞれ嘘をついた。健司には、結子に新しい男ができたと。結子さんには、健司が心変わりしたと。そうすれば、いつか結子さんが俺の方を向いてくれるんじゃないかって…、馬鹿なことを考えたんだ」 卑劣な嘘だった。若さゆえの過ち、では済まされない、二人の人生を狂わせた裏切り。 「指輪は…どうしたの?」結子が震える声で尋ねた。 「ずっと…持っていた。捨てることも、売ることもできずに。まるで、俺の罪の証みたいでな。見るたびに、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。でも数年前、会社の経営が傾いて、どうしても金が必要になって…、古物商に売ってしまったんだ。本当に…すまない…」 辰也は、テーブルに額をこすりつけるようにして、何度も何度も謝った。彼の肩は、嗚咽で小さく震えていた。 健司と結子は、言葉もなかった。四十年の断絶。その原因が、親友のたった一つの嘘だったという事実に、怒りよりも、深い哀しみが込み上げてきた。 しかし、同時に、彼らの心には、ある種の安堵感が広がっていた。 健司は心変わりしたわけではなかった。 結子は裏切ったわけではなかった。 二人の愛は、誰かによって壊されたのではなく、ただ、届かなかっただけなのだ。その事実が、四十年の空白を埋める、唯一の救いだった。 健司は、泣きじゃくる辰也の肩に、そっと手を置いた。 「もういい、辰也。…俺たちも、若かったんだ。お前をそこまで追い詰めたのは、俺たちの無神経さもあったのかもしれない」 結子も、静かに頷いた。 「私たち、これからよ。失われた時間は戻らないけれど…、これからの時間をどう生きるかは、私たち自身で決められるわ」 還暦を目前にした彼らには、若者のような激しい怒りも、憎しみもなかった。あるのは、友の過ちを赦すだけの、年輪を重ねた者だけが持つことができる、深い慈愛と哀れみだった。 夜景の光が、三人の姿を静かに照らしていた。一人の男の告白によって、四十年の時を経て、三人の友情は、歪んだ形ではあったが、ようやく一つの着地点を見つけたのだった。 ### 第五章:螺旋の約束 同窓会から数日後。結子のギャラリー「時の雫」を、健司が訪れた。店のドアを開けた健司を、結子は穏やかな笑顔で迎えた。 「いらっしゃい、桐島くん」 「…健司でいい。昔みたいに」 「…ええ、健司さん」 結子が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人はぽつりぽつりと話をした。それは、四十年間、互いに語ることのできなかった空白の時間を埋めるための、静かで、大切な儀式だった。 それぞれの結婚生活、子供たちのこと、仕事の喜びと苦悩。そして、伴侶を失った悲しみ。互いの人生を丹念に辿るように、言葉を交わした。話せば話すほど、二人が別々の道を歩みながらも、どこか似た価値観を大切に生きてきたことが分かった。 「この指輪…」 健司は、テーブルに置かれた結子の左手に目をやった。人差し指には、あの指輪が嵌っている。 「本当に、不思議な巡り合わせね。辰也さんが手放した指輪が、私のところにやってくるなんて」 「いや」健司は首を振った。「巡り合わせじゃない。指輪が、君の元へ帰りたがっていたんだ。四十年間、ずっと」 健司は、結子の手を取り、その指からそっと指輪を抜いた。そして、自分の手のひらに乗せ、じっと見つめる。イエローゴールドの情熱と、ホワイトゴールドの優しさ。 「学生の時、君に言ったのを覚えているか?最高の建築は、異なる素材が見事に調和して、一つの美しい形を作ることだって」 「ええ、覚えてるわ。あなたはいつも、熱心に語ってくれた」 「この指輪も、同じなんだ。イエローゴールドは、俺の情熱。ホワイトゴールドとダイヤモンドは、君の清らかな優しさ。二つが合わさって、初めて一つの意味を持つ。この螺旋のように、寄り添いながら、互いを高め合っていく…。そんな未来を、君と歩きたかった」 健司は、指輪を結子の左手の薬指に、そっと嵌めた。サイズ15号の指輪は、彼女の薬指には少し大きかったが、まるでそこが本来の場所だと主張するかのように、しっくりと収まった。 「白石結子さん」 健司は、改まって結子の目を見つめた。その瞳は、四十年前の青年のように、真摯な光を宿している。 「俺は、君と歩むはずだった未来を、もう一度、ここから始めたい。失われた四十年を取り戻すことはできない。でも、これからの四十年なら、二人で作っていけるかもしれない。還暦からのスタートも、悪くないだろう?」 それは、プロポーズだった。四十年の時を超えた、二度目のプロポーズ。 結子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。長すぎた旅路の果てに、ようやく辿り着いた安息の場所を見つけた、喜びの涙だった。 彼女は、静かに、しかし力強く頷いた。 「はい…。喜んで、健司さん」 指輪が、薬指でキラリと光った。ダイヤモンドに閉じ込められていた四十年前の光が、ようやく解放されたかのように、令和の柔らかな日差しを浴びて、眩いばかりに輝いた。 ### 終章:EL CANDORの見る未来 数か月後。スペイン、マドリードの街角。 初老の、しかし若々しい雰囲気の日本人カップルが、楽しそうに石畳の道を歩いていた。桐島健司と、今は桐島姓となった結子だ。 彼らは、健司が還暦を迎えたのを機に、彼の建築事務所を後進に譲り、二人で世界を旅することにした。その最初の目的地として選んだのが、このスペインだった。 「ここだよ。この工房だ」 健司が指さした先には、古いが趣のある小さな宝飾店があった。「EL CANDOR」という看板が、昔のまま掲げられている。 店の主は代替わりしていたが、昔の台帳が残っていた。健司の名前と、指輪のデザイン画、そして日本への発送記録。それを見つけた時、二人はまるで宝物を見つけた子供のようにはしゃいだ。 工房の若い職人は、結子の薬指に光る指輪を見て、感嘆の声を上げた。 「素晴らしい。父の代の作品ですが、今もこんなに美しく輝いているとは。まるで、この指輪がずっと、この日を待っていたかのようです」 店の外に出ると、マドリードの空はどこまでも青く澄み渡っていた。健司は、結子の手を優しく握る。彼女の薬指で、指輪が太陽の光を反射して輝いている。 「ありがとう、結子。俺の人生に戻ってきてくれて」 「こちらこそ。私を見つけ出してくれて、ありがとう、健司さん」 彼らの前に広がる道は、決して若くはない。体力も衰え、白髪も増えた。だが、彼らの心は、四十年前の、あの夏の日よりも、ずっと豊かで、穏やかだった。 数々の喜びと悲しみを乗り越え、人の痛みを知り、赦すことを学んだ二人だからこそ、築ける未来がある。 指輪EL CANDORは、そのすべてを知っている。私は、ただの金属と石の塊ではない。私は、時間そのものだ。引き裂かれた過去を繋ぎ、凍てついた心を溶かし、新しい未来を照らす光。 イエローゴールドとホワイトゴールドの螺旋は、これからも続いていく。寄り添い、支え合いながら、永遠に。私のダイヤモンドの輝きが、二人の行く末を、いつまでも見守り続けるだろう。 還暦から始まる恋。それは、情熱の炎というより、暖炉の火のように、静かで、深く、そして何よりも温かい。 二人は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、未来へと続く道を歩き始めた。その薬指に、果たされた約束の輝きを乗せて。